2009年09月22日

賀川豊彦

賀川豊彦

神戸市に、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として生まれます。幼少期に相次いで父母と死別して、5歳の時姉と共に徳島の本家に引き取られるも、兄の放蕩により15歳の時に賀川家は破産してしまい、叔父の森六兵衛の家に移ります。旧制徳島中学校に通っていた1904年、日本基督教会徳島教会の宣教師H・W・マヤスより受洗。この頃安部磯雄、木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚えます。伝道者を志し、1905年明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年、新設の神戸神学校に入学。

 結核に苦しみ、また信仰への懐疑に懊悩しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し、1909年神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始します。

 1911年に神戸神学校を卒業、1912年には一膳飯屋「天国屋」を開業しました。1914年渡米し、プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1915年スラムでの経験を踏まえて『貧民心理之研究』を出版します。後に、文中に差別思想があるとして部落解放運動関係者から批判されています。

 1917年に帰国しますと、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めました。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、1919年友愛会関西労働同盟会を結成する、理事長となりました。同年日本基督教会で牧師の資格を得ます。1920年に自伝的小説『死線を越えて』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めました。印税はほとんど関与した社会運動のために投じられました。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組みました。また、武藤富男らと共に、キリスト教系業界紙、キリスト新聞(発行元;キリスト新聞社)を立ち上げました。

 1921年、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)・川崎造船所(現・川崎造船神戸工場)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的なサンディカリストの勢力が増していきました。暴力を否定し、時には無抵抗主義を唱える賀川の人格主義的な主張は、次第に敬して遠ざけられるようになっていきました。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになります。

 1922年、協力者杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組みました。組合は急速に発展し、3年後の1925年末には組合員数は7万人を超えました。この間、1923年関東大震災の罹災者救済活動を行います。また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年労働農民党結成に当たっては執行委員に就任しますが、同年末の左右分裂に際して党を脱退しました。

 1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していきました。1929年、日本基督教連盟の特別協議会は賀川の主導により「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年まで全国を伝道のため巡回しました。また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行います。第二次大戦に関しては国際戦争反対者同盟に属しましたが、1943年11月の憲兵隊による取調べを境に同同盟を脱退、国際友和会日本支部を自ら解散しています。

 戦後は東久邇宮内閣参与や勅選貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画しました。民間人としてはじめてマッカーサーに会った人物であるとされています。終戦直後の目立った活動としては「1億総懺悔運動」への協力があげられます。

 幣原内閣解散後の吉田組閣の難航に伴い総理大臣候補として名の上がった事もあるといいます。晩年は世界連邦運動に取り組み、1947年、翌1948年にはノーベル文学賞の候補となり、1954年から1956年の3年連続でノーベル平和賞候補者として推薦されました。

 大宅壮一によると、賀川は労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、社会における天皇制の存在意義を積極的に認めていたといいます。日本社会党結党の際には、中間派の浅沼稲次郎らと共に中心メンバーとなり、結党大会で天皇陛下万歳三唱の音頭を取った事で、社会党左派との内部対立を引き起こしました。
posted by ss at 20:10| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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